みちしるべのないみち の みちしるべ

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2009年04月08日 (17:20)

骨肉の争い

保元の乱 1156(保元元年)  

平安末期、鳥羽法皇崇徳上皇が対立する中、1155年に鳥羽法皇の推す後白河天皇が即位し、崇徳上皇の不満が高まる。
そこに藤原忠通頼長兄弟関白氏長者争いが絡みつく。

1156年(保元元年)、鳥羽法皇が死ぬと、崇徳上皇藤原頼長と結んで源為義為朝平忠正らの武士と組み、後白河天皇関白藤原忠通を討とうと企てる。

後白河天皇藤原忠通源為義の子・義朝忠正の甥の清盛らを用いてこれを阻止。崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、為義も斬られてしまう。

このの後、歴史は源平の覇権争いへと続くことになる。


保元の乱は、

   《兄・崇徳 対 弟・後白河》  
   《弟・藤原頼長 対 兄・藤原忠通》

  《叔父・平忠正 対 甥・平清盛》  
  《父・源為義&弟・源為朝 対 子かつ兄・源義朝》
   

という側面を持つ、肉親相討つ戦いであった。(いずれも、後者が勝利者)


愚管抄』で

保元元年七月二日 鳥羽院うせさせたまいてのち
日本国の乱逆という言葉おこりてのち 武者の世になりにけるなり


とこのが武家時代の幕開けとなったと記した慈円藤原忠通の実子である。

その慈円百人一首にその名を残している。


おほけなくうき世の民におほうかな わがたつ杣に墨染の袖


話が前後してしまったが、慈円の父である勝者・藤原忠通は、近衛・鷹司・九条・二条・一条五摂家始祖となる。

1162年に出家、法性寺入道となり1164年、68歳で世を去った。
生前、法性寺流として知られるなど文才にも秀でており、こちらも百人一首にその歌が取り上げられている。


わたの原こぎいでてみればひさかたの雲居にまがふ沖つしら浪

海に漕ぎ出してみれば、はるか沖の白波はまるで雲のようだ。



敗者となり讃岐に流された崇徳上皇は、髪も爪も伸ばし放題、まさに鬼のような形相で朝廷を恨み続け、自らので写経するなど思いを残したまま46歳で世を去る。

遺体を埋葬するため白峰山に運ぶ途中に夕立に見舞われ、石の上に棺をおろすと、死後20日が過ぎるというのにが流れだし、死に切れていないと周囲を恐れさせたという。

700年の後(1868年)、戊辰戦争に際し、その崇りを恐れた朝廷にその御霊を京へと戻された。

崇徳上皇の歌も百人一首に見ることが出来る。


瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ



勝者と敗者、二人の歌は76番目と77番目に並んでおさめられている。



   *     *     *     *     * 


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